村崎太郎の講演を聞いて |
話の大半は太郎の芸能界ネタで、太郎が2008年に部落出身者であることを本でカミングアウトしたのに、スルーされてしまった。それは根深い部落差別があるからというのが柱だった。
部落出身者を宣言するのは自由だが、「自分の先祖は武士だ」とか、「平家の末裔」と気張っている人を周囲がまともにとりあわないのと同じで、「部落出身」と声高に叫ばれても、「ふーんそうなんだ、だから?」としか反応しようがない。それではいけないのか。
旧身分などというのは、その程度のものでしかない。それが成熟した社会の当たり前の姿である。太郎はどういう反応を期待していたのか。悲劇のヒーローとしてスポットライトをあててほしかったのか。
売れまくっている芸人が、これを機にばったり干されたというならまだ分かるのだが、事業に失敗し、行き詰まって自殺まで考えていたという太郎が、カミングアウトで浮上できなかったからといって、それを「部落差別のせいだ」というのは、おかしな理屈ではなかろうか。
ただ、芸人として浮上できなかったかもしれないが、今は年間200件もの「人権講演」をしているというから、その意味では非常に注目される結果にはなったようだ。
がっくりきたのは「猿回しだけだと、ただのお笑いで終わってしまうので、歌をうたうことにした」と、素人に毛が生えたような歌を、ステージで長々と歌ったこと。本芸で勝負せず、このようなレベルのものを客に聞かせるとは芸人としての見識を疑う。
太郎の話には首をかしげたくなる箇所が多かったが、そのいくつかを紹介する。
①「部落民は勉強しても市役所職員か教師にしかなれないと言われてきた」。テレビに登場するスターで「100億円」を動かしてきた太郎にすれば、そういう感覚になるのかもしれないが、なんという尊大な物言いだろうか。高校は進学校に進み、偏差値は高く、一流大進学をめざしていたが、断念して猿回しの世界に飛び込んだとも強調していた。そこには貧しくて学べない実態は語られない。太郎が同和行政による環境改善とともに育ち、その恩恵を受けてきた世代であるからだろう。
②ドコモの携帯電話用メールで「ぶらく」と売っても「部落」とは出ない。これほどまでにタブーは根深いとしていたが、実際にはすぐに出る。
③太郎が生まれた地域は電気がきていなかったとのことだったが、1961年に電気がないというのは嘘くさい。「水道も下水もない」というのは、その通りだろうと思う。当時は部落内外を問わず井戸は当たり前で簡易水道も多かった。とりわけ被差別部落は飲料水の衛生環境が悪いケースが多く、「水道闘争」という運動も展開された。下水はないのが当たり前だ。当時に水洗便所がどこにあったというのだろうか。高知市中心部だって今でも下水がきていない地域はたくさんある。
住環境や道路の状態が悪かったというのはその通りで、早急に改善する必要があるため、同和対策事業が入り、環境は一気に改善されたのである。
④フジテレビプロデューサー栗原美和子に結婚を申し込んだ時、乗り気でなかった美和子が、太郎が被差別部落出身と聞かされて、「それなら結婚する」と言ったという下り。
「部落出身でなければ結婚しませんと言うこと」だと太郎は嬉々として自虐的にこれを紹介した。「部落出身であることをこれほど誇りに感じたことはありません」とも。
もし、そんなことを自分が言われたら、冗談じゃない、不愉快だ。
部落民であろうがなかろうが、人物をみて、あなたに決めたというなら分かる。人物はイマイチだが部落出身なら良いとはどういうことか。
栗原美和子は、部落民というブランドと結婚するのか。被差別の弱者と自らすすんで結婚する自分に酔っているのだろうか。部落出身者を同じ人間としてとらえていない、特別視した上から目線を感じる。このようなことを自慢話のように話す太郎の感覚も情けない。
村崎太郎の父・義正は、全解連山口県本部副委員長、日本共産党光市議で、部落解放同盟と厳しく対峙してきた立場の人物。太郎の叔父・村崎勝利は全解連や全国人権連の副議長を務めた大幹部で、高知にも何回もきている。自分も勝利氏の話を何度か聞いたことがあるが、とても面白い話をする人で、旧身分など豪快に笑い飛ばし、部落問題が解決した社会への展望を明るく語って、解同の確認糾弾路線を厳しく批判してきた人だった。
しかし、太郎の話は正反対に、先行きのない暗い話だった。部落はいつまでもついてまわり、逃れられない、みんな無関心だが、その無関心が差別なのだと。
結局、太郎の部落問題のとらえ方は、血の問題=少数民族問題とほぼ同じで、永遠に連鎖すると思っているようだ。このとらえ方は、部落解放同盟の考え方に近い。
だが、部落問題は、民族問題ではない。男女、民族、障害者など「違う」ことを前提にした差別ではなく、同じ民族が人為的に作られた旧身分で分断されていたのであるから、同化・融合すれば問題ない。そもそも違いはないのである。
地域では混住がすすみ、部落の実態はとぼしく、世代が変わっていくことで、放っておいても旧身分に起因する因習的差別はなくなる。だから太郎がいうように世間の圧倒的な人々は「無関心」なのだ。もともと同じなのだから、無関心で何の問題もない。
一方で、旧同和地区内では、同和行政の限界からくる新しい問題もある。公営住宅の比重が高すぎて地域に多様性が乏しく、収入がある若い層は地域から出てしまい、結果的に高齢化、低所得層が残ることによる課題が山積している。
因習的な部落差別はほとんど解決しているのだが、同和行政の一種の囲い込み政策的な手法に起因する問題が新たな偏見を生み出しかねない状況にさえあるように感じる。
つまり、部落問題はもうほとんど問題にならないが、役所が作り出した「同和行政問題」があるのである。
であるからには、今だからこそ、同和行政的な特別扱いする施策、逆効果にしかならない啓発も含めて、早く止めなければならない。これこそが、真の問題解決への最短コースではないだろうか。
しかし、行政は「まだまだ根深い、やりつづけなければならない」というマッチポンプな思考から抜け出せず、エンドレス状態に落ち込んでいる。
行政関係者も、国民融合論の立場の話もたまには聞いて見たらどうですかね。視界がひらけますよ、きっと。滋賀大の梅田先生とか。
話を太郎に戻す。芸人がテレビに出たとかどうとか、そんなことに関心はない。芸能界で浮き沈みは当たり前だ。結局、太郎の話は、自分がテレビに出た時の業界の裏話ばかりで、地域に広がる貧困も、課題も何も見えてこなかった。問題のとらえ方が観念的で実態に乏しく、まじめに問題の解決を考えているようには思えない。
この時期は全国で人権関係講演会があるのだが、講師探しが大変だ。が、そこは便利な業者があって、県は外郭団体に丸投げ、さらに外郭団体は業者に委託する。業者のHPにはずらっと「村崎太郎、猿回しと歌付き」みたいなメニューが並んでいて、それをセレクトすれば、あとはお任せ、お決まりのパターン。全国の自治体で同じような事をやっている。ホント、いいかげんにやめればいいのにと思う。