2007年 02月 10日
呼称問題 |
県漁業信用基金協会への県出資金をめぐる問題であるが、これを人に分かるように短時間で説明するのは至難の業だ。昨年から多くの記事を書いてきたのだが、一様に「ようわからん」と言われる。
5月4日だ6日だとかの細部や人物名を出して説明しようとすると、相手はチンプンカンプンになってしまうので、アウトラインだけにしようと思うと、もっと詳しく説明しろと言われ、何をどう説明したら分かってもらえるのかが、分からなくなってしまい自分が「闇」に陥ってしまう。
多くの県民がこの問題を理解できない大きな要因は高知新聞の書き方にある。
まず「闇保証疑惑」という呼び方である。これがおかしい。
よく考えていただきたい。保証をしたのは基金協会であり、県ではない。
「闇融資事件」の夢よもう一度で「闇」にこだわりたいのだろうが、モード事件の時は融資をしたのはまぎれもなく県であり、県が議会や知事にもはからず県費をモード社に直につっこんでいたわけで、文字通りの県による「闇の融資」であった。
しかし、今回百条委で調査しているのは、基金協会の保証ではなく、県が基金協会に出した出資金についてである。この出資金は過去39年間一度も欠かさず県が計画的に積み上げてきたもので、もちろん議会もきちんと通過しているし、知事も決済している。であるから出資金はどう考えても「闇」などとはいえない。あえて言うとすれば、「基金協会への出資金問題」とでもすべきである。
確かにN村氏のメンタルには「闇」があったのかもしれないが、知事査定や財政幹部の言動で、きっぱり否定されており、論じる余地はすでにないと言ってもよい。
「闇保証疑惑」などという、自分らだけのワールドを見出しに必ずスタンプするのはやめたほうがよい。またリードでも最近の高新には「よこはま水産に絡む」みたいな雑な書き方が目立つ。確かに「絡む」とか「一連の闇保証疑惑」とか書くのは、ちゃんと説明しなくてよいので、非常に楽なのであるが、受け取るほうの認識はバラバラであり、真実解明にはほど遠い。
いい加減な書き方は、物書きとして退廃だ。読者にきちんと説明するのではなく、疑惑ありげに印象を操作する手法は、2003年の「選挙資金疑惑」からやけに目立つが、結局一見仲の悪そうな社会部と政治部が、どっちが書いてもこうなるというのは、編集局長の趣味なのか、それともにじみ出る体質なのだろうか。
5月4日だ6日だとかの細部や人物名を出して説明しようとすると、相手はチンプンカンプンになってしまうので、アウトラインだけにしようと思うと、もっと詳しく説明しろと言われ、何をどう説明したら分かってもらえるのかが、分からなくなってしまい自分が「闇」に陥ってしまう。
多くの県民がこの問題を理解できない大きな要因は高知新聞の書き方にある。
まず「闇保証疑惑」という呼び方である。これがおかしい。
よく考えていただきたい。保証をしたのは基金協会であり、県ではない。
「闇融資事件」の夢よもう一度で「闇」にこだわりたいのだろうが、モード事件の時は融資をしたのはまぎれもなく県であり、県が議会や知事にもはからず県費をモード社に直につっこんでいたわけで、文字通りの県による「闇の融資」であった。
しかし、今回百条委で調査しているのは、基金協会の保証ではなく、県が基金協会に出した出資金についてである。この出資金は過去39年間一度も欠かさず県が計画的に積み上げてきたもので、もちろん議会もきちんと通過しているし、知事も決済している。であるから出資金はどう考えても「闇」などとはいえない。あえて言うとすれば、「基金協会への出資金問題」とでもすべきである。
確かにN村氏のメンタルには「闇」があったのかもしれないが、知事査定や財政幹部の言動で、きっぱり否定されており、論じる余地はすでにないと言ってもよい。
「闇保証疑惑」などという、自分らだけのワールドを見出しに必ずスタンプするのはやめたほうがよい。またリードでも最近の高新には「よこはま水産に絡む」みたいな雑な書き方が目立つ。確かに「絡む」とか「一連の闇保証疑惑」とか書くのは、ちゃんと説明しなくてよいので、非常に楽なのであるが、受け取るほうの認識はバラバラであり、真実解明にはほど遠い。
いい加減な書き方は、物書きとして退廃だ。読者にきちんと説明するのではなく、疑惑ありげに印象を操作する手法は、2003年の「選挙資金疑惑」からやけに目立つが、結局一見仲の悪そうな社会部と政治部が、どっちが書いてもこうなるというのは、編集局長の趣味なのか、それともにじみ出る体質なのだろうか。
by tosahiro-k
| 2007-02-10 00:45
| 取材こぼれ話