2009年 03月 05日
「カネじゃない」考 |
最近、「子どもの貧困」と「学力」が最大の関心事で、様々な人に話を聞いているのだが、高新・竹内誠氏の夕刊コラムの感想を少し。
彼が言う「経済力を理由にした反論」には、自分たちのような人間の言っていることも多少は視野に入っていると思われる。「学力、体力、非行は親の財力に一定左右されるが、カネを理由にした仕方ないで結果に目をつぶるのではなく、正面を見据えて改善点を探るべきだ」と竹内氏は説く。
実は、県・高知市の教育長も、ほとんど同じ言い方をしていた。「教育に関係する者は貧乏のせいにしてはいけない」と。
はっきり言うが、「貧乏だから仕方がない」などとは誰も言っていない。貧乏でも学びが保証される社会、「教育の機会均等」を実現していくことが教育行政の仕事であると言っている。そのスタートは「貧乏の現実」を直視することから始まるからこそ、それを強調するわけだが、そう投げかけても「貧乏のせいにしてはいけない」と噛み合わずもどかしい。
県教育長も知事も、ことあるごとに、「金がない人には、授業料減免や奨学金制度があるじゃないか、ちゃんと対策はしている」と言うが、現状の制度の下で、教育の機会均等の剥奪が拡大し、家計に占める教育費の割合が高まっていることを理解しているのだろうか。さらに高校の全県一区で困難を加速しようとしているのだから辻褄があわない。
だいたい「奨学金がある」と言うが、今時、どの親が好きこのんで、「奨学金」という名の高利ローンを子供に負わせようと思うだろうか。だからこそ、県の奨学金も利用者が減り、予算を減額補正しているほどだ。「使いたくても使えない」。教育の機会均等を保証していくための子供のセーフティネットが、あまりにも貧弱で、弱者を放置しているのが日本であるという現状をしっかりおさえる必要がある。
「その困難を打開していくのが教育だ」というのは、まったくその通りで、個々の子供の勉強の弱点を克服していく前提として、金がなくても学びから排除されない仕組み、高等教育も展望できるシステムの構築が重要になる。竹内氏が言うように「カネですべてが決まるような世の中はおかしい」のである。こういう社会をただしていくことこそが大人のやらなければならないことだとつくづく思う。
「貧乏のせいにしてはいけない」論は、善意からでもあっても、問題の核心から目をそらす役割しか果たさないのではないだろうか。
ところで、雑誌「教育」2月号に秋田の先生の手記が載っていて面白かった。秋田の先生がなぜ「てやてや」でないのかがよく分かった。要するに、以前から県内一斉テストでいつも締め上げられ、テスト結果を比べられてきた経過があるので、一斉テストへの恐怖感が教師に強くあり、それが子供に浸透しているからなのだ。高知県教委は、そっくりそのまま秋田のマネをして、県教委の各課のいたるところに「秋田の教育」というファイルが並んでいるが、教師がおびえているような学校で、よい教育ができるのだろうか。そうとは思えない。
奨学金という名の高利ローンのくだり、「まともな感覚の親なら」という表現は、やむを得ず借りた人の神経を逆撫でするのでやめよという忠告があったので、「誰が好きこのんで」に訂正しました。
彼が言う「経済力を理由にした反論」には、自分たちのような人間の言っていることも多少は視野に入っていると思われる。「学力、体力、非行は親の財力に一定左右されるが、カネを理由にした仕方ないで結果に目をつぶるのではなく、正面を見据えて改善点を探るべきだ」と竹内氏は説く。
実は、県・高知市の教育長も、ほとんど同じ言い方をしていた。「教育に関係する者は貧乏のせいにしてはいけない」と。
はっきり言うが、「貧乏だから仕方がない」などとは誰も言っていない。貧乏でも学びが保証される社会、「教育の機会均等」を実現していくことが教育行政の仕事であると言っている。そのスタートは「貧乏の現実」を直視することから始まるからこそ、それを強調するわけだが、そう投げかけても「貧乏のせいにしてはいけない」と噛み合わずもどかしい。
県教育長も知事も、ことあるごとに、「金がない人には、授業料減免や奨学金制度があるじゃないか、ちゃんと対策はしている」と言うが、現状の制度の下で、教育の機会均等の剥奪が拡大し、家計に占める教育費の割合が高まっていることを理解しているのだろうか。さらに高校の全県一区で困難を加速しようとしているのだから辻褄があわない。
だいたい「奨学金がある」と言うが、今時、どの親が好きこのんで、「奨学金」という名の高利ローンを子供に負わせようと思うだろうか。だからこそ、県の奨学金も利用者が減り、予算を減額補正しているほどだ。「使いたくても使えない」。教育の機会均等を保証していくための子供のセーフティネットが、あまりにも貧弱で、弱者を放置しているのが日本であるという現状をしっかりおさえる必要がある。
「その困難を打開していくのが教育だ」というのは、まったくその通りで、個々の子供の勉強の弱点を克服していく前提として、金がなくても学びから排除されない仕組み、高等教育も展望できるシステムの構築が重要になる。竹内氏が言うように「カネですべてが決まるような世の中はおかしい」のである。こういう社会をただしていくことこそが大人のやらなければならないことだとつくづく思う。
「貧乏のせいにしてはいけない」論は、善意からでもあっても、問題の核心から目をそらす役割しか果たさないのではないだろうか。
ところで、雑誌「教育」2月号に秋田の先生の手記が載っていて面白かった。秋田の先生がなぜ「てやてや」でないのかがよく分かった。要するに、以前から県内一斉テストでいつも締め上げられ、テスト結果を比べられてきた経過があるので、一斉テストへの恐怖感が教師に強くあり、それが子供に浸透しているからなのだ。高知県教委は、そっくりそのまま秋田のマネをして、県教委の各課のいたるところに「秋田の教育」というファイルが並んでいるが、教師がおびえているような学校で、よい教育ができるのだろうか。そうとは思えない。
奨学金という名の高利ローンのくだり、「まともな感覚の親なら」という表現は、やむを得ず借りた人の神経を逆撫でするのでやめよという忠告があったので、「誰が好きこのんで」に訂正しました。
by tosahiro-k
| 2009-03-05 01:34
| 取材こぼれ話