2012年 10月 22日
橋下徹と大阪の解放教育 |
橋下は1969年生まれだから、同和教育が熱心に取り組まれていたという大阪市立中学に通っていたのは80年代前半ということになる。
この頃、70年代をピークにした部落解放同盟の確認糾弾闘争は盛りは過ぎたとはいえ、まだまだその力は絶大だった。
高知では当時、教師が地区出身の生徒に「部落民宣言」をさせたり、「狭山闘争勝利」とか「部落解放」とか書いたゼッケンを「解放こども会」の児童生徒につけさせて登校させる、「ゼッケン登校」などの解放教育が大きな問題になっていた。
「部落民宣言」というのは、地区出身の子どもらを「部落解放の戦士」として育てる「儀式」で、判断力が十分でない子どもに教師が「指導」して全校生徒の前で、今で言うところのカミングアウトを強要するものだ。「うちは部落などこだわらない生き方をしているので、そんなことはできない」という保護者がいても、「差別に負けている」みたいな余計なお節介で、教師どもが取り囲んでよってたかって説得工作した。
解放同盟に屈服した多くのマスコミは、このような重大な問題をまったく報じない。公教育の場で生徒の出自暴きを教師が強制していたなどということは、同和教育を知らない人たちには、にわかに信じられないだろうが、少し前まで、多くの西日本の小中学校で取り組まれていたのが実態だ。「立場宣言」などと名を変えて、似たようなことを今でもやっている学校がまだあるかもしれない。
そして、これを忠実に熱心にやる教員ほど管理職となり、教育委員会の要職を占めていった。このような流れの中で、一ツ橋小事件もおきた(部落民宣言を拒否した同小教諭の小笠原政子さんの出自を、森田益子解同高知市協議長がビラや機関紙で暴露し、最高裁でプライバシー侵害が認定された事件)。
高知でこれであるからして、橋下が育った大阪は、高知とはレベルが違う全国一の解放教育・同和行政の拠点である。そこで育った橋下への影響はいかばかりか。
この時代はすでに古典的な部落問題、住環境や職業の格差はもはや問題にならず、橋下ら若い世代に封建的な身分差別的な意識は希薄だが、新たな問題として同和行政の歪みによる過剰な「逆差別」、解放教育の学校への介入など、解同路線とそれに従属する行政・教育を原因とする、あらたな忌避意識や差別が問題になっていた。
このような中で多感な少年時代を過ごした橋下少年。
同和地区出身であることを明らかにした猿回し師・村崎太郎は、子どもの時に一番イヤだったのが「差別はやめましょう」という同和教育の時間だったという。「クラス中が自分のことを見ているようで、ただうつむいていた」と語っていた。橋下とともに村崎太郎にも自分はシンパシーはまったくないが、この太郎の気持ちはすごくよく分かる。
橋下は中学生の時、大阪の解放教育をどんな気持ちで受けていたのだろうか。このしがらみから逃れたくて橋下は全府的に生徒が集まる進学校である北野高校に進んだという。
大阪の同和行政・解放教育が橋下に与えた影響は、決して無視できない。連載をやるなら、そういう角度から、きっちりとやってほしい。
この頃、70年代をピークにした部落解放同盟の確認糾弾闘争は盛りは過ぎたとはいえ、まだまだその力は絶大だった。
高知では当時、教師が地区出身の生徒に「部落民宣言」をさせたり、「狭山闘争勝利」とか「部落解放」とか書いたゼッケンを「解放こども会」の児童生徒につけさせて登校させる、「ゼッケン登校」などの解放教育が大きな問題になっていた。
「部落民宣言」というのは、地区出身の子どもらを「部落解放の戦士」として育てる「儀式」で、判断力が十分でない子どもに教師が「指導」して全校生徒の前で、今で言うところのカミングアウトを強要するものだ。「うちは部落などこだわらない生き方をしているので、そんなことはできない」という保護者がいても、「差別に負けている」みたいな余計なお節介で、教師どもが取り囲んでよってたかって説得工作した。
解放同盟に屈服した多くのマスコミは、このような重大な問題をまったく報じない。公教育の場で生徒の出自暴きを教師が強制していたなどということは、同和教育を知らない人たちには、にわかに信じられないだろうが、少し前まで、多くの西日本の小中学校で取り組まれていたのが実態だ。「立場宣言」などと名を変えて、似たようなことを今でもやっている学校がまだあるかもしれない。
そして、これを忠実に熱心にやる教員ほど管理職となり、教育委員会の要職を占めていった。このような流れの中で、一ツ橋小事件もおきた(部落民宣言を拒否した同小教諭の小笠原政子さんの出自を、森田益子解同高知市協議長がビラや機関紙で暴露し、最高裁でプライバシー侵害が認定された事件)。
高知でこれであるからして、橋下が育った大阪は、高知とはレベルが違う全国一の解放教育・同和行政の拠点である。そこで育った橋下への影響はいかばかりか。
この時代はすでに古典的な部落問題、住環境や職業の格差はもはや問題にならず、橋下ら若い世代に封建的な身分差別的な意識は希薄だが、新たな問題として同和行政の歪みによる過剰な「逆差別」、解放教育の学校への介入など、解同路線とそれに従属する行政・教育を原因とする、あらたな忌避意識や差別が問題になっていた。
このような中で多感な少年時代を過ごした橋下少年。
同和地区出身であることを明らかにした猿回し師・村崎太郎は、子どもの時に一番イヤだったのが「差別はやめましょう」という同和教育の時間だったという。「クラス中が自分のことを見ているようで、ただうつむいていた」と語っていた。橋下とともに村崎太郎にも自分はシンパシーはまったくないが、この太郎の気持ちはすごくよく分かる。
橋下は中学生の時、大阪の解放教育をどんな気持ちで受けていたのだろうか。このしがらみから逃れたくて橋下は全府的に生徒が集まる進学校である北野高校に進んだという。
大阪の同和行政・解放教育が橋下に与えた影響は、決して無視できない。連載をやるなら、そういう角度から、きっちりとやってほしい。
by tosahiro-k
| 2012-10-22 14:55
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