2014年 02月 25日
中沢卓史高知県教育長の辞任にあたって |
中沢卓史高知県教育長の辞意が昨日報じられました。中沢さんに辞意の理由について聞くと「健康上の理由ではない。6年やったら、後任に引き継ぐため辞めるつもりだった。役人としてどうやって後に引き継いでいくかはいつも考えてきた」とコメントしました。
実は1カ月ほど前に「辞めるつもりだ」という噂話が聞こえてきたので、驚いてご本人に面と向かって聞いたことがあったのですが、その時は「あほー言うな、そんなどこかの飲み屋話を真に受けてどうすらあ」と真顔で一蹴されましたので、てっきり根も葉もない話と思っていたのですが、やはり本当だったとは驚きました。
自分が中沢さんを強く意識したのは県総務部長時代で、当時の橋本大二郎知事を支え、県政改革の要となって自民県議団らの猛烈な橋本バッシングと対峙していました。
今の県議会からは、想像できませんが、あの頃(橋本県政後期)は凄かったですよ。特に、みなさんとっくに忘れていると思いますが「闇保証」。高知新聞、自民県議団が一体となって、息も絶え絶えの漁業業界への支援策としての融資に信じられない言いがかりをつけて、「闇のカラクリを見た!」と大騒ぎして、県議会に百条委を作り県職員を次々と喚問した結果、ネズミ一匹出ずという結末でしたけれど、その攻撃から橋本知事と県庁組織を守るために八面六臂の活躍をしたのが、前副知事・十河清さんと中沢さんでした。
国の役人の指定ポストになっていた総務部長を、橋本知事から地家侍として県政の改革を託されたことを中沢さんは意気に感じていたと思いますし、ご本人もそのようなことを話していた覚えがあります。秀吉と官兵衛とでもいいましょうか、そこには裏方としての「役人」の美学のようなものも感じました。
中沢さんは橋本知事の番頭格でしたし、理路整然とはっきり物を言い、外からの圧力や不公正さとは常に一線を画していましたので、県議などからも煙たがられていたと思います。
それ故かどうかは分かりませんが、尾﨑県政下で教育委員会に「出た」ことは、本意でなかったかもしれません。県庁マンにとって、西庁舎は「外」なんですよね。その心中は測りかねますが、教育長になってからは、学校と教委の「仕事の仕方」を変えることを強調して、具体的には学区撤廃、学テ順位引き上げ策、県高知市合築図書館、ろう学校への知的分校併設、南中高廃校と西高へのバカロレア構想などにアグレッシブに着手しました。
学区撤廃、トップダウンの強引な学テ対策、合築図書館、ろう学校への分校併設などには賛否が分かれましたが、その一方で、経済的な問題で子どもの学びを疎外してはならないという思いは強く持っていて、批判的な立場からの主張にも理があると思えば取り入れる努力もし、県立高校の留年生の無償に県教委としていち早く対応したり、県立高校の保護者が私費負担していた空調の公営化=無償など、なし崩し的に保護者に負担させていた本来公が負担すべき費用をきちんと公が負担することへ大きく前進させました。これなどは地味ですが、公務のあり方に常に問題意識を持ってきた中沢さんだからこそ成し遂げられた課題だったと思います。
直近では特別支援学校に通う重度障害児の通学保証のためのタクシー利用について、一部ではありますが、改善をはかりました。これも注目されてはいませんが、全国的にも波及する内容で、今後の改善につながる高く評価されていい決断です。
南中高廃校、西高へのバカロレア構想は中途になりましたが、「いつ辞めても課題はある」と辞意との関連性は否定。南廃校については、生徒数が大きく減る中、泥を被ってでも学校数を減らしていかなければ、教育行政の責任が果たせないという強い考えを持っていました。
自分としても教育は非常に重視してきた分野で、批判もさせてもらいましたが、立場は違えど、自分のような者も、それなりに信頼してくれていたのでしょうか。いろんなことを本音で話してくれましたし、取材や情報提供にも公平に対応してもらえて感謝しています。これは、中沢さんがおそらく公務の情報を公開することによる住民の県政参加=主権在民に、信念のようなものを持っていたからだろうと思います。
任期途中の辞任とは、寂しい気持ちもありますが、ご本人の決断ですので仕方ありません。長い間、本当にお疲れ様でした(もちろん2月県議会が終わってからの話ですが)。次は何をやることになるのでしょうか。
2009年に学力問題でインタビューさせてもらったことがありましたが、その時、高校を怪我で留年したことなど、ご自身の教育体験について聞かせてもらったことが強く印象に残っています。
実は1カ月ほど前に「辞めるつもりだ」という噂話が聞こえてきたので、驚いてご本人に面と向かって聞いたことがあったのですが、その時は「あほー言うな、そんなどこかの飲み屋話を真に受けてどうすらあ」と真顔で一蹴されましたので、てっきり根も葉もない話と思っていたのですが、やはり本当だったとは驚きました。
自分が中沢さんを強く意識したのは県総務部長時代で、当時の橋本大二郎知事を支え、県政改革の要となって自民県議団らの猛烈な橋本バッシングと対峙していました。
今の県議会からは、想像できませんが、あの頃(橋本県政後期)は凄かったですよ。特に、みなさんとっくに忘れていると思いますが「闇保証」。高知新聞、自民県議団が一体となって、息も絶え絶えの漁業業界への支援策としての融資に信じられない言いがかりをつけて、「闇のカラクリを見た!」と大騒ぎして、県議会に百条委を作り県職員を次々と喚問した結果、ネズミ一匹出ずという結末でしたけれど、その攻撃から橋本知事と県庁組織を守るために八面六臂の活躍をしたのが、前副知事・十河清さんと中沢さんでした。
国の役人の指定ポストになっていた総務部長を、橋本知事から地家侍として県政の改革を託されたことを中沢さんは意気に感じていたと思いますし、ご本人もそのようなことを話していた覚えがあります。秀吉と官兵衛とでもいいましょうか、そこには裏方としての「役人」の美学のようなものも感じました。
中沢さんは橋本知事の番頭格でしたし、理路整然とはっきり物を言い、外からの圧力や不公正さとは常に一線を画していましたので、県議などからも煙たがられていたと思います。
それ故かどうかは分かりませんが、尾﨑県政下で教育委員会に「出た」ことは、本意でなかったかもしれません。県庁マンにとって、西庁舎は「外」なんですよね。その心中は測りかねますが、教育長になってからは、学校と教委の「仕事の仕方」を変えることを強調して、具体的には学区撤廃、学テ順位引き上げ策、県高知市合築図書館、ろう学校への知的分校併設、南中高廃校と西高へのバカロレア構想などにアグレッシブに着手しました。
学区撤廃、トップダウンの強引な学テ対策、合築図書館、ろう学校への分校併設などには賛否が分かれましたが、その一方で、経済的な問題で子どもの学びを疎外してはならないという思いは強く持っていて、批判的な立場からの主張にも理があると思えば取り入れる努力もし、県立高校の留年生の無償に県教委としていち早く対応したり、県立高校の保護者が私費負担していた空調の公営化=無償など、なし崩し的に保護者に負担させていた本来公が負担すべき費用をきちんと公が負担することへ大きく前進させました。これなどは地味ですが、公務のあり方に常に問題意識を持ってきた中沢さんだからこそ成し遂げられた課題だったと思います。
直近では特別支援学校に通う重度障害児の通学保証のためのタクシー利用について、一部ではありますが、改善をはかりました。これも注目されてはいませんが、全国的にも波及する内容で、今後の改善につながる高く評価されていい決断です。
南中高廃校、西高へのバカロレア構想は中途になりましたが、「いつ辞めても課題はある」と辞意との関連性は否定。南廃校については、生徒数が大きく減る中、泥を被ってでも学校数を減らしていかなければ、教育行政の責任が果たせないという強い考えを持っていました。
自分としても教育は非常に重視してきた分野で、批判もさせてもらいましたが、立場は違えど、自分のような者も、それなりに信頼してくれていたのでしょうか。いろんなことを本音で話してくれましたし、取材や情報提供にも公平に対応してもらえて感謝しています。これは、中沢さんがおそらく公務の情報を公開することによる住民の県政参加=主権在民に、信念のようなものを持っていたからだろうと思います。
任期途中の辞任とは、寂しい気持ちもありますが、ご本人の決断ですので仕方ありません。長い間、本当にお疲れ様でした(もちろん2月県議会が終わってからの話ですが)。次は何をやることになるのでしょうか。
2009年に学力問題でインタビューさせてもらったことがありましたが、その時、高校を怪我で留年したことなど、ご自身の教育体験について聞かせてもらったことが強く印象に残っています。
by tosahiro-k
| 2014-02-25 11:35
| 取材こぼれ話