2006年 08月 20日
「よさこい嫌い」 |
ちょっと以前のことになるが、高知新聞にいやなコラムがあった。8月12日夕刊「よさこい嫌い」。非常に不快感を覚えた。
何やら「部落差別」をテーマにしたいようなのだが、なんで「よさこい」と無理やり関係させてケチをつけるのか良く分からない。まして踊り子たちに、唐突に的外れな説教を垂れる神経。いったい何様のつもりか。
だいたいこの論法でいくと「よさこい」に限らず、高知県が全国的に有名になるたびに、ことごとく関係する人たちが「部落差別」の責めを負わされる羽目になる。その理屈はおかしくないか。
紹介している「関西で暮らす県出身の男性」の年齢は明らかでないので、いやな思い出がいつごろの話なのかは不明であるが、いろいろな考え方の人がいるので、この人が「よさこい」が嫌いであるということは否定しない。しかし、それがあたかも普遍的であるかのような思い込みはやめたほうがよい。こだわる人もいるだろうが、ぜんぜん気にしない人もどっさりおる。
T地氏は、この手の話題をよく書いているので、高知新聞内では部落問題に詳しく、思い入れがあるのであろう。で、部落差別について、彼はこう定義している。「根拠もなく生まれた場所をさげすまれ・・・」。そもそもT地氏は部落差別をどういうものと考えているのか、部落民とは何なのか?
彼の言葉を借りると「生まれた場所」が問題らしい。しかし解同幹部や市教委幹部に「地区内へポンと引っ越してきたら部落民か?」と何度も聞くが、いずれもそれは違うとのこと。外から引っ越してきた夫婦間に「地区内」で子供が生まれてもその子は「部落民」ではないそうだ。だとすれば「生まれた場所」というのは本質的でないことになる。
であれば血か?実際、ある解同幹部はかなりこれに近いことを言っていた。「部落民」が都会へ出て、「部落民」でない人と結婚した場合の子供は該当するという。つまりハーフであれば本人がまったく「地区」と無関係でも当確。が、その子供に、「かくかくしかじかでお前も部落民だ」と言っても、当然ながら大概の場合、意味不明であろう(このパターンで部落民宣言をM田M子氏に強要されたのが小笠原政子先生だった)。ハーフは当確であれば、クォーターは?とさらに聞くが良く分からない。結局のところは差別されたという本人の自覚の問題だと言うのでコケてしまったことがある。
「部落差別は依然厳しい」とステレオタイプはいつも繰り返すのだが、「では部落民って誰?」という基本中の基本を問いかけると明確な答えがなかなか返ってこない。これほど対象が明確でない「人権問題」は例がない。女性、障害者、ハンセン病、HIV患者、在日・・・対象は疑いようもなく明確である。
部落問題を定義するならば、先祖の旧身分が賤民階層であったということになるのだろうか。その集団が一定の時期までは、閉鎖的なコミュニティで被差別部落を形成し、きびしい差別の実態もあった。しかし、所詮は旧身分。封建制の残存物であるわけで、時代ともに薄れていくのは世の常である。加えて莫大な同和対策事業の投入、そして重要なのは混住による旧来の地域コミュニティの喪失。「地区」に住んでいても身元チェックをしなければ「部落民」かどうかは分からないのだ。つまり「部落」は消えつつある(法的な同和地区はとうに消えている)。
とりわけこのところの若い層の意識は決定的に変わっている。彼らにとって今更、ご先祖様の旧身分など知ったこっちゃない(平家の末裔だ、武士の家系などというのと本質的には同じである)。風前の灯の「部落」が完全消滅するのも時間の問題だ。旧身分などというナンセンスなものにこだわらず、自由に「よさこい」を楽む若者たちのどこが悪いのか。いつまでも旧身分にこだわり続けるT地氏と、どっちに未来があるのか、よく考えてみてほしい。
何やら「部落差別」をテーマにしたいようなのだが、なんで「よさこい」と無理やり関係させてケチをつけるのか良く分からない。まして踊り子たちに、唐突に的外れな説教を垂れる神経。いったい何様のつもりか。
だいたいこの論法でいくと「よさこい」に限らず、高知県が全国的に有名になるたびに、ことごとく関係する人たちが「部落差別」の責めを負わされる羽目になる。その理屈はおかしくないか。
紹介している「関西で暮らす県出身の男性」の年齢は明らかでないので、いやな思い出がいつごろの話なのかは不明であるが、いろいろな考え方の人がいるので、この人が「よさこい」が嫌いであるということは否定しない。しかし、それがあたかも普遍的であるかのような思い込みはやめたほうがよい。こだわる人もいるだろうが、ぜんぜん気にしない人もどっさりおる。
T地氏は、この手の話題をよく書いているので、高知新聞内では部落問題に詳しく、思い入れがあるのであろう。で、部落差別について、彼はこう定義している。「根拠もなく生まれた場所をさげすまれ・・・」。そもそもT地氏は部落差別をどういうものと考えているのか、部落民とは何なのか?
彼の言葉を借りると「生まれた場所」が問題らしい。しかし解同幹部や市教委幹部に「地区内へポンと引っ越してきたら部落民か?」と何度も聞くが、いずれもそれは違うとのこと。外から引っ越してきた夫婦間に「地区内」で子供が生まれてもその子は「部落民」ではないそうだ。だとすれば「生まれた場所」というのは本質的でないことになる。
であれば血か?実際、ある解同幹部はかなりこれに近いことを言っていた。「部落民」が都会へ出て、「部落民」でない人と結婚した場合の子供は該当するという。つまりハーフであれば本人がまったく「地区」と無関係でも当確。が、その子供に、「かくかくしかじかでお前も部落民だ」と言っても、当然ながら大概の場合、意味不明であろう(このパターンで部落民宣言をM田M子氏に強要されたのが小笠原政子先生だった)。ハーフは当確であれば、クォーターは?とさらに聞くが良く分からない。結局のところは差別されたという本人の自覚の問題だと言うのでコケてしまったことがある。
「部落差別は依然厳しい」とステレオタイプはいつも繰り返すのだが、「では部落民って誰?」という基本中の基本を問いかけると明確な答えがなかなか返ってこない。これほど対象が明確でない「人権問題」は例がない。女性、障害者、ハンセン病、HIV患者、在日・・・対象は疑いようもなく明確である。
部落問題を定義するならば、先祖の旧身分が賤民階層であったということになるのだろうか。その集団が一定の時期までは、閉鎖的なコミュニティで被差別部落を形成し、きびしい差別の実態もあった。しかし、所詮は旧身分。封建制の残存物であるわけで、時代ともに薄れていくのは世の常である。加えて莫大な同和対策事業の投入、そして重要なのは混住による旧来の地域コミュニティの喪失。「地区」に住んでいても身元チェックをしなければ「部落民」かどうかは分からないのだ。つまり「部落」は消えつつある(法的な同和地区はとうに消えている)。
とりわけこのところの若い層の意識は決定的に変わっている。彼らにとって今更、ご先祖様の旧身分など知ったこっちゃない(平家の末裔だ、武士の家系などというのと本質的には同じである)。風前の灯の「部落」が完全消滅するのも時間の問題だ。旧身分などというナンセンスなものにこだわらず、自由に「よさこい」を楽む若者たちのどこが悪いのか。いつまでも旧身分にこだわり続けるT地氏と、どっちに未来があるのか、よく考えてみてほしい。
by tosahiro-k
| 2006-08-20 22:49
| 取材こぼれ話