2006年 08月 23日
板東真砂子 猫殺し論争 |
板東氏が日経のコラムに子猫を捨てて「殺して」いると書いたことが大変な議論になっているようだ。この人、高野切や功名が辻で、ケンカをわざとふっかけて楽しんでいるような感じの人なので、今度もその口かなと思ったが、自分はこの文章を読んで今回はこれまでのような嫌な感じはしなかった。
たぶん、彼女が全国的にボロクソに非難されている状況の中で、自分の天邪鬼モードにスイッチが入ったのかもしれないし、自分も昔、孕の小動物管理センターに猫を何度かお願いして、「鬼」とののしられたこともあるので、ここはひとつ板東氏を擁護してみたい(土佐高知さん、センターはなくなってません。高知の分は民間委託になったけど)。
土佐高知さんも書いてたけど、はっきり行って日本の多くの田舎では今でも「猫殺し」はやっている。自分の祖父の里の山奥でも、まったく同じで、子猫が生まれたらすぐに取り上げてダンボールに入れて速攻で川に流すのがデフォルトだった。これは板東流に言えば「猫殺し」そのものだが、今でも似たようなものだと思う。
まあ田舎では猫はペットではない。害獣よけの家畜であり、家に何匹もはいらないから、生まれたら目が開かない毛も生えていない段階で速攻で処分。生まれた直後というのがせめてもの情けだ。
人間として生きるためのことを、自ら何一つせず金で買うだけの都市住民は生き物を「殺す」場面に遭遇することはまずないだろうが、田舎では生活の中で日常的に動物を殺す。
ネズミやモグラ、サルを捕まえるとオリごと水没させるし(楽に確実に処分できる)、イノシシ、シカ、ウサギなどを撃つと皮をはぎ解体する。ニワトリは「今日はどれを絞めろうか?」と捕まえ(狙われたニワトリは殺されるのを察知し、すごい勢いで逃げる)、首を切って失血死させる。あの断末魔のニワトリの叫びは強烈だった(でもその晩の水炊きはご馳走だった)。
こういう日常の中で、子猫を川に投げ込む行為など何の抵抗もない。そういう文化が日本に限らず田舎にはある。板東氏は佐川出身だったと思うが、そういう文化の底流にも触れているだろうし、現地タヒチの文化も似たようなものではという感じがする。「動物愛護」は都会のキレイゴトでしかない。
板東氏は猫を捨てた自分を自虐的に書いてるだけのようにも思えるし、ひょっとすると現実に多くの人が死んでいる戦争には反応しない多くの人々が猫で騒ぐのを皮肉りたいというのが狙いなのか。深読みのしすぎだろうか。
たぶん、彼女が全国的にボロクソに非難されている状況の中で、自分の天邪鬼モードにスイッチが入ったのかもしれないし、自分も昔、孕の小動物管理センターに猫を何度かお願いして、「鬼」とののしられたこともあるので、ここはひとつ板東氏を擁護してみたい(土佐高知さん、センターはなくなってません。高知の分は民間委託になったけど)。
土佐高知さんも書いてたけど、はっきり行って日本の多くの田舎では今でも「猫殺し」はやっている。自分の祖父の里の山奥でも、まったく同じで、子猫が生まれたらすぐに取り上げてダンボールに入れて速攻で川に流すのがデフォルトだった。これは板東流に言えば「猫殺し」そのものだが、今でも似たようなものだと思う。
まあ田舎では猫はペットではない。害獣よけの家畜であり、家に何匹もはいらないから、生まれたら目が開かない毛も生えていない段階で速攻で処分。生まれた直後というのがせめてもの情けだ。
人間として生きるためのことを、自ら何一つせず金で買うだけの都市住民は生き物を「殺す」場面に遭遇することはまずないだろうが、田舎では生活の中で日常的に動物を殺す。
ネズミやモグラ、サルを捕まえるとオリごと水没させるし(楽に確実に処分できる)、イノシシ、シカ、ウサギなどを撃つと皮をはぎ解体する。ニワトリは「今日はどれを絞めろうか?」と捕まえ(狙われたニワトリは殺されるのを察知し、すごい勢いで逃げる)、首を切って失血死させる。あの断末魔のニワトリの叫びは強烈だった(でもその晩の水炊きはご馳走だった)。
こういう日常の中で、子猫を川に投げ込む行為など何の抵抗もない。そういう文化が日本に限らず田舎にはある。板東氏は佐川出身だったと思うが、そういう文化の底流にも触れているだろうし、現地タヒチの文化も似たようなものではという感じがする。「動物愛護」は都会のキレイゴトでしかない。
板東氏は猫を捨てた自分を自虐的に書いてるだけのようにも思えるし、ひょっとすると現実に多くの人が死んでいる戦争には反応しない多くの人々が猫で騒ぐのを皮肉りたいというのが狙いなのか。深読みのしすぎだろうか。
by tosahiro-k
| 2006-08-23 23:44
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