2007年 02月 24日
ほぼ |
高知新聞の社会面で連載されている「疑惑の紋様」。執筆者は取材班になっていて署名がないが、主筆はY光社会部長であることは間違いない。この文章の隅々から、彼の思い入れが伝わってくるのだが、思い入れが強すぎて、バランスを欠いている。ブログや「小説」ではないのであるから、過度の思い入れは禁物だ。
たとえば11年5月6日、組織決定をしたとN村氏らが言っている副知事協議の開催が「ほぼ明らかにされている」との記述が2月23日付けにある。
ここを読んで「ちょっと待って、プレイバック、プレイバック」という山口百恵のあのフレーズが頭を横切ったのだが、「ほぼ明らか」って何???
要するに明らかにならなかったということではないか。
5月6日の副知事協議の開催の有無は今回の疑惑の核心部である。その開催を認めているのはN村氏とY城氏という、直貸しに走ろうとしていた「暴走コンビ」のみ。彼らの「お仲間」と思われたK間氏でさえ、そんな会はないと述べている(これは想定外だっただろうと思う)。だいたいずっと5月4日だと言い張ってきたのに、通用しなくなってきたので、「げに6日にかわらん」とY城氏が変更したものであり、N村氏は「Y城氏が6日に変えたと言ってるから6日」と言っているだけなのである。
また唯一の物証として提出されている極秘メモにも、6日の記述はない。4日ということでストーリーができており、後で6日に脚本を変えたものの、小道具が対応していないように見える。
だいたい6日の協議の存在を明らかにする証人を拒んだのは疑惑を追及している側、その存在を証明したくてたまらないはずの自民党である。これは何を物語っているのだろうか。これで「ほぼ明らかにされた」などと書ける神経がよく分からない。
実は昨年末、松本サリン事件でマスコミに犯人視された河野義行さんの話を聞く機会があったのだが、彼がこれと同じことを言っていた。当時の見出しには「長野県警 毒ガス発生減は会社宅とほぼ断定」という文字が踊ったという。断定できていないのに、マスコミが洪水のように誘導して、「あの人がやったに違いない」という誤った世論を作った。であるから「ほぼ」などという書き方は非常に危ない。
高知県において、よくも悪くも県民世論は「高知新聞」によって形成される。その自覚と責任を持ってほしい。「ほぼ」などという姑息なことはやめたほうがいい。
たとえば11年5月6日、組織決定をしたとN村氏らが言っている副知事協議の開催が「ほぼ明らかにされている」との記述が2月23日付けにある。
ここを読んで「ちょっと待って、プレイバック、プレイバック」という山口百恵のあのフレーズが頭を横切ったのだが、「ほぼ明らか」って何???
要するに明らかにならなかったということではないか。
5月6日の副知事協議の開催の有無は今回の疑惑の核心部である。その開催を認めているのはN村氏とY城氏という、直貸しに走ろうとしていた「暴走コンビ」のみ。彼らの「お仲間」と思われたK間氏でさえ、そんな会はないと述べている(これは想定外だっただろうと思う)。だいたいずっと5月4日だと言い張ってきたのに、通用しなくなってきたので、「げに6日にかわらん」とY城氏が変更したものであり、N村氏は「Y城氏が6日に変えたと言ってるから6日」と言っているだけなのである。
また唯一の物証として提出されている極秘メモにも、6日の記述はない。4日ということでストーリーができており、後で6日に脚本を変えたものの、小道具が対応していないように見える。
だいたい6日の協議の存在を明らかにする証人を拒んだのは疑惑を追及している側、その存在を証明したくてたまらないはずの自民党である。これは何を物語っているのだろうか。これで「ほぼ明らかにされた」などと書ける神経がよく分からない。
実は昨年末、松本サリン事件でマスコミに犯人視された河野義行さんの話を聞く機会があったのだが、彼がこれと同じことを言っていた。当時の見出しには「長野県警 毒ガス発生減は会社宅とほぼ断定」という文字が踊ったという。断定できていないのに、マスコミが洪水のように誘導して、「あの人がやったに違いない」という誤った世論を作った。であるから「ほぼ」などという書き方は非常に危ない。
高知県において、よくも悪くも県民世論は「高知新聞」によって形成される。その自覚と責任を持ってほしい。「ほぼ」などという姑息なことはやめたほうがいい。
by tosahiro-k
| 2007-02-24 19:58
| 取材こぼれ話