先日、秋吉敏子が高知で開いたソロコンサートをきっかけに、これまであまりまじめに聞いてこなかった秋吉作品を最近聞いている。
この2枚のアルバムは初期作品で、手前の「THE TOSHIKO TRIO」は1956年の録音。56年初夏といえば、彼女が渡米して半年たってない。バークリー音楽院で活動を始めた直後であるにもかかわらず、リズムセクションは、ベースがポール・チェンバース、ドラムスがエド・シグペンというすごいメンバー。すでに当時ノーマン・グランツのプッシュでアメリカで売れていた彼女の当時のポジションが分かる(たぶんにキワモノ的な注目だったのだろうとは思うが)。
この時の敏子の演奏はユタヒップのようにちょっとオドオド感もあり、バド・パウエルに心酔している様子もありありと分かるが、日本人が誰もやったことのなかったアメリカに「裸一貫」で女が単身乗り込み、バークリーで学び、ジャイアンツたちと競演する。「負けてなるものか」と精一杯背伸びしている若き日(27歳)の敏子の姿が目に浮かぶようだ。一番聞きいってしまうのは、ありきたりだが、「朝日のごとくさわやかに」かな。
もう一枚の録音は60年。「TOSHIKO MARIANO QUARTET」。バークリーの教官だったチャーリー・マリアーノと結婚した直後。新婚ホヤホヤである(ジャケットの写真もいかにもという感じ)。こちらは大分演奏にゆとりがでてきているのだが、マリアーノのアルトサックスが入ることで敏子の味が薄れ、いまひとつ好きになれない。こんどは後期のビッグバンド時代を聞き込んでみようかと思う。
秋吉敏子の全作品で一番好きなのは、「ロング・イエロー・ロード」。高知のコンサートでも冒頭に演奏していた。彼女の歩みをおおざっぱに言うと、華々しく活躍した50年代、子供を抱え苦労した60年代、ビッグバンドで新境地を開いた70年代ということになるが、強烈な人種差別の国、生き馬の目を抜くジャズ界で生き残り、今日の地位を築いたのは、ありきたりだが、強靱な精神と、天才的テクニック、そしてたぐいまれな幸運があったからだ。彼女の幸運はただ者ではない。
でもそんな彼女も、売れない時代には、子供を抱えてアパートの家賃の支払いができず「もうジャズはやめよう」と何度も思ったそうだが、渡米以来50年間、「黄色く長い道」を堂々と歩き続けたことを思うと、この曲は本当に感慨深いものがある。